「ばくだん坂のいわれ」を35年ぶりに読んで

「ばくだん坂のいわれ」を35年ぶりに読んで

竹内美幸

先日、私が小学校3年生の2月に親しむ会の例会で野田富子さんから聞いた話を書いた作文「ばくだん坂のいわれ」を犬塚さんがホームページにアップしてくださいました。懐かしくもつたない文章でしたが、それを読んで、いろいろなことを思い出しましたので、あいかわらず未熟ながら書き記したいと思います。

ばくだん坂は私の通学路でした。少し急な坂で、雪道では滑りそうになるし、自転車では一気に登れず、登れるようになったのは高学年になってからでした。その坂は、爆弾が落ちた1945年3月25日以前は違う名前がついていたそうです。

爆弾は富子さんの家の東側の畑から寺林のバス停があった辺りまで何発も落ちていて、ばくだん坂と呼ばれている場所だけではないことをこの時初めて知りました。防空壕に逃げた方は全員亡くなったと聞いた時、何故防空壕に入れたのに亡くなってしまったのか、旦那さんや長男はどこにいて亡くなったのか、防空壕に入れなかった富子さんが無事だったのはなぜか、子ども心に意味がわからず、何回も聞いてしまったことを思い出しました。

防空壕は坂の中腹の斜面に掘られていたので直撃を受けたこと、旦那さんや長男は防空壕に向かっている途中の家の東側の畑で爆撃を受けたのだろうということ、富子さんは小さい子どもを背負い身重だったことから逃げるのが遅れ、それで助かったのだということが、文や写真を見て今なら理解できます。あの時、富子さんの辛い思い出を体験談として話してくださった勇気に感謝したいと思います。

私が5年生の時、近所のおじいさんやおばあさんを訪ね、中志段味の田んぼの「地名調べ」をしました。田んぼや水路には地図に残っていない地名やそれぞれの家で呼んでいる呼び方がありました。寺林の川本さんには湧き水にまつってある水神さまを「おうらさま」と呼んでいることを教えていただきました。

同じ嶋の深田さんからは、お諏訪さまの裏の斜面の東側の防空壕からばくだん坂にばくだんが落ちるのを見ていた話も聞きました。 現存する防空壕はお諏訪さまの裏の斜面の西側にありますが、それは隣の嶋用のものだったようです。それから旦那さんが戦地に赴く前に切った「爪」を見せていただき、これが遺骨になってしまったことを聞きました。深田さんは後に自分の半生を本にしたいとまとめていたそうですが、その想いは子や孫には伝わらなかったようで、それが残念でたまりません。しかし、この地名調べによりご近所をたずねたことで、いろいろな興味深い話を聞くことができたので、本当にやって良かったと思いました。

それから私が高校2年生の頃、吉根のお年寄りが話していた「名古屋の指令部を移転するための防空壕」が発見されました。名古屋城が見える斜面にあり、私は危ないから、と中には入りませんでしたが、穴は奥深くまで掘ってあったそうです。戦争の被害の大小はありますが、この志段味に残された戦争の遺物を忘れないで遺していってほしいなと改めて思いました。

今回は戦争について書きましたが、親しむ会では古墳巡りや野鳥観察会など様々なことを行ってきました。私は父に温泉や遊園地などに連れていってもらった覚えがないなぁーと思っていましたが、親しむ会に参加することで、地元の素晴らしい自然や歴史を学ぶ機会を得ていたことを改めて実感することができました。今はなかなか参加することができませんが、これからも続けていってほしいと思います。長文乱文読んでいただき、ありがとうございました。

(写真:竹内美幸氏撮影・提供)

(最初の公開:2019年4月8日)

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