ばくだん坂のいわれ

ばくだん坂のいわれ

野田美幸(中志段味・志段味東小4年)

 みなさんはばくだん坂に落ちたばくだんの名前をしっていますか?

ばくだん坂に落ちたばくだんは、「おおりんばくだん」というばくだんだったとばくだん坂の近くにむかしからすんでいた野田さんが教えてくれました。

その当時野田さんはせなかに子どもをおんぶしていて、おなかがおおきかったためとてもおそくなり、あわててぼうくうごうに行こうとして、げんかんをでるときに、あの「おおりんばくだん」が落ちたのです。

そのばくだんのせいでぼうくうごうに、入っていた人は、全員死んでしまいました。

この野田とみこさんのお父さんと、お兄さんは、ぼうくうごうには、入っていなかったけど死んでしまいました。

お父さんの方は、体が少し、つぶれていても体全体が見つかったのですが、お兄さんの方は、顔の半分と、右手の少しが、畑やわりと遠くにころがっていたそうです。

ばくだん坂に落ちたとき、大きなあなが何こか、たくさんあいているのを古い白黒写真で見て、びっくりしました。

この大きなあなは、上寺林から下寺林までの坂にあって、その坂にそってあるけど下寺林の大道路ぞえにも少しありました。

今はなにもないようにみえるけど、ばくだんがおちたときのひがいはすごかったような気がします。

もうあんないやな思いをしたくないと、ひがいをうけた人は、思ったかもしれません。

わたしの家では、板戸がばたばたたおれたりとかいの方からきてひがいをうけた人が、家の前の今ない家にねかせたりしてほおむったそうです。

もうばくだんは落ちてほしくないと思う。

 この原稿は、野田美幸さんが親しむ会2月例会に出席して聞いた話を、後に学校の作文で書かれたものです。なお、文中の「お父さん」は野田富子さんのご主人の一さん。「お兄さん」は野田富子さんの長男の二美さんのことです。


出典:『私たちの博物館 志段味の自然と歴史を訪ねて』第4号、1986年4月15日、10ページ。

注:中志段味の上寺林と下定納の字界の坂道を、地元の人は爆弾坂と呼びます。1945年3月25日未明のアメリカ軍による空襲で、この一帯に被害がでました。文中の「おおりんばくだん」は黄燐爆弾のことです。

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